デカダンス

日記のような、短編のような、詩のような、俺

おバカなエゴイスト

地元(北海道)の寒さを思い出してこっちの寒さなんて本当大したことないなぁと思った。でも、いくらそういう風に感傷混じりの思い出と今を比べったって寒いという事実は変わらないのだから、過去が味方のように見えてしまうのは錯覚なのか、あの高二の冬の誰とも会話したくないような最悪な気分の時、自分の部屋に大の字で横になって、泣いて鳴いたあの時に比べたら、今は随分マシになったよなぁ、って思考を巡らせて現在進行形の吹き溜まった欲求不満が少し和らいでいくのも錯覚なのか。

 

女と楽しげに談笑しながら、昼の暖かな日差しの中、コンクリートの坂をゆっくりと登っていく男は幸せだと思うのも錯覚なのか、可愛くて愛想もいい女の子は全員人生を楽しんでいて小説なんて絶対読まないし、Nirvanaなんて絶対聞かないし音楽に助けを求めないというのも実は錯覚で、放課後は家で人間失格を読んで墜ちかけた太陽を指差して、「斜陽だ」なんて呟いたり、スマッシュパンプキンスのBullet with Butterfly wingsを大音量で聴きながらファッキンクールビリーコーガンyeah,yeah,ah,Despite of my rage i'm still just a rat in a cageとか叫んでいるのかもしれない。

 

じゃあ、俺の憂鬱も自己陶酔的な錯覚なのか?苦しいって言うのは心の底から本当なのか?なぁ答えろよ俺、本当に変わりたいなら答えてくれよ俺、何もかもが錯覚ってことはないのかい。

 

音楽や小説は心の弱い人間が止まぬ苦悶を紛らわすために本能的に手をさしのばすものでなければならないというのも錯覚で、世には色々な価値観があって、楽しさをより清く強くしてくれる曲や、無意識に踊りたくなるような曲にも存在価値があるのかも、なんなら菅田将暉やバックナンバーにも。

 

でも俺はいつまでたってもおバカなエゴイストなので錯覚なんて概念を捨て去って瞬間で感じる激情に身を任せ、嫌いだ嫌いだ寂しい寂しい苦しい苦しい好きだ好きだと言っていたい。tetoのルサンチマンを聴きながらエアギターをしてキメていたい。Under the bridgeを弾きながらいつまでも思い出に耽っていたい。今はまだ、表現者ぶってんじゃねぇぞこの四流ダメ人間、と言われても、お前なんてなんの価値もないと言われても、いつかはダメ人間全員を黙らせて、日本、いや世界中のどうしようもなく救えないダメ人間と仲良くなって、世の中をダメに(良く)したい。

 

負け犬であればあるほど理想を語りたがり、夢見がち。

 

こたつの中は暖かい、外は

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